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現実。 [その他]

 今日も絶不調。
 確かに、何もやる気が起こらない訳ではないし、映画を観たり音楽を聴くことは出来る。しかし、何と言ったら良いのだろうか、どこか虚しさやもの悲しさにずっと付きまとわれているのである。
 打たれ弱いのは事実だけれど、年を追う毎にそれが酷くなっているような気がする。自信を持てないし、世の中や周囲から取り残されていっているようにも思えるのである。
 不安はぼんやりとしていない。むしろ、もっと強烈な存在感をもって僕の心に覆い被さってくる。自分の能力への諦めが仮についたとしても、そのために周囲に迷惑をまき散らすような状態は厭だ。迷惑をかけまいとすると今度は自分という存在が疎ましくなってくる。誰かを憎んでみても良いけれど、それは何の解決にもならない。いっそ、と思うこともしばしばあるが、今度は恐怖が邪魔をする。それに両親のことを思わずには居られない。
 こうして八方塞がりな状態なまま、僕は明日を過ごすことになる。
 これが現実。
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<戦艦大和>を観て。 [映画・映像]

 国立近代美術館フィルムセンター。
 今月は新東宝の作品を特集しているそうで、僕は先日の<番場の忠太郎>に続いて、である。
 今回もまずは音楽目当てで、担当は芥川也寸志である。やはり音楽はそう沢山は出てこなかったけれど、いかにも芥川だなあと思える節回しや響きが聴かれたので興味深かった。当時彼はまだ20代後半だったはずで、まさに新進気鋭の作曲家だったはずだ。
 <戦艦大和>。そのままである。<大和>が沖縄に向かう途中でアメリカ軍に撃沈されるまでのお話しである。史実は史実として捉えるべきだろうから、それについての感想は述べない。
 もちろん、映画作品としての脚色はあるはずだ。<大和>の悲劇をもって反戦論やその逆のことを単純に描くことは不可能だろう。このテの作品は問題提起を観客に投げかければまずはそれで良いのではないか。そこから先は観た者が考えることである。
 とは言え、その意味でこの作品は人物もやや淡々と描かれていたように思うし、その分の深みにも多少欠けるように思えてならなかった。
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願望。 [その他]

 最近、どうにもスッキリしない。
 プレッシャーのかかる仕事が続いているせいも無い訳ではない。しかし、それ以上にある思いが強くなっているように思う。
 それは「表現すること」である。音楽を聴いてもそう、テレビを観てもそう、舞台を観てもそう。そこに居る演奏家や演者を眺めていると、無性に羨ましくなるのである。もちろん、鑑賞すること自体の楽しみは大いにある。だが同時に沸き起こるのは、「あー、表現者になりてえなぁ」という感情なのである。
 僕はもともと何かを表現することには興味はあったし、多少は表現をする経験もしてきた。しかし、そういう現場から離れてもうだいぶ経つ。鑑賞側、受け手側に回ると、それはそれで楽しいし、まず楽である。それに、日常生活を送ること自体、一種の「表現」であると割り切ってしまいさえする。
 とは言え、ここのところの心境からすると、僕はそうした日々の生活から来るマンネリズムを思い切り打ち壊したいようなのである。傍から眺めた時にそれが面白いか、素晴らしいか、ということを抜きにしてでも、何かで自分を表現したい。ブログも一応そういう表現には属するのだろうけれど、まだ物足りなく思う。
 何となく弾ける予感のする日々なのである。
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歳をとる。 [その他]

 41歳になった。
 このぐらいになってくると昔程にはテンションも上がらなくなってくる。気持ちの上で自分ではまだまだと思っていても、客観的には堂々たる中年である。今どきの平均寿命を考えれば人生半分なのかもしれないが、僕は多分そんなには生きていないように思う。
 どちらにせよ既に人生の折り返し地点を過ぎてしまっている訳だから、これからはもっと丁寧に生きなければならないと思う。かと言って漫然ともしていられない。決して目に見えるものやかたちにこだわるつもりもないけれど、そろそろ何かひとつ僕という人間の存在証明を遺したいような気はますます強くなっている。
 それは何らかの作品なのかもしれないし、その前に平均的な家庭生活なのかもしれない。いずれにしても待っているだけではどうにもならない。焦ってはいけないが、動かねばならないだろう。
 とは言え、突然大きな目標を立てたところでどうせ途中で投げ出してしまうのだろうから、小さなことからコツコツと遂げていきたい。僕という人間は変化するということについて極端なところがあるのだけれど、これからの一年は着実な歩みを進めていければ、と思っている。
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もうひとつ。 [その他]

 ここのところ毎朝何故か目覚ましよりも全然早い時間に目が覚めてしまう。
 これは僕の調子の悪い時の兆しである。
 特定の何かが原因という自覚は無いのだが、全体的にどちらかと言えば上手くいっていないように思えていることは確かだ。
 逃避的になってみたり、自暴自棄的な心境になってみたり、もちろん安定期もあるから落ち着かない。
 自分に正直に、と簡単に言うことは出来るけれど、僕の場合、いつの自分に対して正直になれば良いのか分からなくなるのである。あれもしたい、これもしたい、またその逆もある。ただ時間が過ぎ去っていくことに対する不安もある(更に経済的な不安は当然のこと)。何かが訪れるのを楽しみにすることよりも、むしろその不安の方が大きく思われることもある。
 将来や未来、というものほど恐れの対象になっていると言ってもよい。因果応報という意味では、自分の過去の行いの拙さのせいであることは分かっているのだが。
 とは言え、このまま悔いばかりを残して死ぬのも口惜しい。やりたいことを全てやり尽くそうという気持ちも大事だろうけれど、まずは一日、一日を何とか。
 と、書いてきてスッキリしたかと言うと、もちろんそんなはずはない。
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今日の移動。 [その他]

 最近、久方振りに図書館通いを始めた。
 僕の場合、お目当ては本よりもCDだったりする。僕のような音楽好きの貧乏人にとって東京は良い所だ。都内の市区の図書館はなかなかにクラシックのCDの在庫が充実している所が多いのである。
 今月になって俄に聴いてみたいCDが出てきた。それは10年以上前にシリーズで10数枚出た後はもう廃盤になっているものである。輸入盤のボックスがあるのは知っているが、中古でも4500円ぐらいはするらしい。そこで都内図書館巡りを敢行という次第。
 朝、出勤でもするかのような時間に調布駅へ。しかしまずは電車には乗らない。南口からバスで成城学園前駅を目指す。途中、仙川の駅近くを通るから、そこから乗れば良かったと思う。
 30分程して成城学園前駅に到着。今度は小田急に乗って千歳船橋駅に向かう。駅から5分ちょっとで世田谷区立桜丘図書館に着。そこで今日の1枚目を借りる。直ぐに駅に戻って、また成城学園前に帰る。再びバスに乗って、今度は世田谷区立鎌田図書館に移動。ここはバスでないとまず来れない場所なので、返す時の面倒さを感じる。とは言え、ここで2枚目を借りる。
 更にバスに乗って二子玉川駅へ。ここから大井町線に乗って中延駅に。次に地下鉄浅草線に乗り換えて三田に行く。ここの駅近くに港区立三田図書館がある。ここでは既に借りていたものを返す。今日は先を急ぐので新たに借りはしない。
 三田から今度は東銀座へ。本当の最寄りでは無いが、中央区京橋図書館は歩いて行ける距離である。ここではお目当てのものとたまたま目に入ってしまった面白そうなもの、併せて3組を借りる。そのまま駅には戻らず銀座の真ん中に行く。最初はヤマハに行こうかと思ったが、さすがに煩わしくなったので山野に行くことにして、ラフマニノフの交響曲第2番のスコアを購入。直ぐに東銀座まで戻る。
 東銀座から蔵前まで浅草線で行って、そこで駅外乗り換えで大江戸線に。ここの乗り換えは結構な距離なので鬱陶しい。まあ、今日のような大移動?からすれば大したことはないはずなのだが。
 蔵前からは本郷三丁目に行く。駅から10分程歩いて文京区の真砂中央図書館に行って、やはり借りていたものを返す。普段、いちばんお世話になっているのは文京区の図書館なのだが、今日は返すだけ。また本郷三丁目に戻って新宿西口まで大江戸線に乗る。
 休みの日に出かけて、15時位に新宿まで戻ってくるのは、僕としては非常に早い方なのだが、今日はまだ続く。京王に乗って調布を越えて府中まで行く。府中市の中央図書館もなかなかに充実している所なのだが、僕は相互利用という立場なので一度に3枚までしか借りられないし、しかも1週間で返さなければならない。その不便さはあるにせよ、使える図書館であることには違いない。ここでまた3枚返して3枚借りる。
 まだ終わらない。
 図書館の目の前にあるバス停から、またバスに乗って今度は武蔵小金井駅に移動。中央線で吉祥寺に。ここはおなじみの中古CDショップに立ち寄る。普段だと長考の挙句に数百円のCD1枚で終わるところなのだが、今日は珍しく即決だった。探していたロバート・シンプソンの交響曲のCDがまとめて出ていたので、僕にとっての欠番だったもの2枚を購入。
 吉祥寺からは井の頭線経由で調布に帰るテもあるが、僕はこのラインはバスで帰るのが好きなのでバスを選択。
 結局、一日仕事で目的を達成し、更にオマケまで付いてきた、珍しく実りの多い移動だった。
 しかし、ヒマ人と言われればそのとおり、である。
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<番場の忠太郎>を観て。 [映画・映像]

 あんまりCDショップばかり行くのもつまらない。ただでさえサイフの紐を堅くしなければならないということもあるが、それ以上に「これは」と思えるものには滅多にお目にかかれないのである。
 少しは違う休みの過ごし方を、と思っていた。
 ネットでいろいろと調べていると、国立近代美術館フィルムセンターに行き当たった。前に東京に住んでいた時は時々通っていた場所である。見ると今日は<番場の忠太郎>という作品を上映する、とある。タイトルに何故かピンと来た。センターのHPで詳細を見てみると案の定である。
 この作品の音楽を担当したのは清瀬保二だった。清瀬が少なからぬ数の映画音楽を手がけていたのは知っていたけれど、その作品を観たことは無かった。
 これは行かねば。
 ということで数年ぶりにフィルムセンターへ。
 <番場の忠太郎>は<瞼の母>と言った方が分かりやすいのかも知れないが、普通僕らの世代でもそんなには知られていないはずだ。まあ、生き別れた親子の人情劇と言っておけば良いのではないか。実際の作品のあらすじは省略。
 さて、期待の音楽。全編86分のうちで数カ所という程度の登場。チャンバラのような動きの激しい場面ではなく、情感芝居の場面がいくつか、という感じである。清瀬の場合、彼独特の節回しという程、アクの強い音楽を書く訳ではないから、良くも悪くもBGM的なノリで聴こえる。良い意味で言えば物語の邪魔を決してしない。
 その意味では清瀬よりも若い早坂文雄や武満徹のように映像とのコラボレートという域には至らない。もっとも、この物語であればそんなことはしない方が良いのも間違いないのだけれど。
 一応、映画そのものについて。忠太郎の若山冨三郎も母の山田五十鈴もいい味だったが、実はそれ以上に、忠太郎を助ける侍役の森繁久彌の飄々とした雰囲気が面白かった。
 
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<ゴヤ 光と影>展を観て。 [美術]

 上野の国立西洋美術館は久しぶり。
 ゴヤのイメージ。僕はどちらかというと暗い作品の方に馴染みを覚えている。多分、世界史の本か何かで見た<マドリード、1808年5月3日>の印象が強いからだろう。他にも<我が子を食らうサトゥルヌス>もショッキングな作品だというイメージを持っている。
 今回は上記2作は含まれておらず、目玉は<着衣のマハ>である。その前に、会場ではまずは<自画像>から。晩年に近い時期の作品とのことだが、その暗い眼差しに目が行く。そして<日傘>。一転して優雅さ漂う作品である。決して原色ではないけれど、スペインの明るい日射しと、2人の衣装の鮮やかさが美しい。
 今回の展覧会では油彩よりも素描や版画が圧倒的に多い。それらはやはりゴヤの暗い部分、社会に向けての怒りや風刺が示されているように思える。
 そうした影があるからこそ<着衣のマハ>のような作品の輝きようは際立つ。以前から知っていたように思える作品ではあるのだが、実物を観ると何とも艶かしいものを僕は感じずには居られなかった。今回は来ていない<裸のマハ>よりも、とも思う。
 正直、版画や素描の方はすっ飛ばし気味に観て回ったのだけれど、何点かの油彩に接するだけでも価値のあった展覧会だと思う。
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<ウメサオタダオ展>を観て。 [その他]

 梅棹忠夫の名前だけは前から知っていたし、<知的生産の技術>や<文明の生態史観>という著作の題名も知っていた。<文明の生態史観>の方は何度か書店で手に取って、買おうかと迷ったこともあるけれど、結局今までのところ中身には踏み込んでいない。その意味では、僕は彼のことをほとんど知らない。
 それで今回の企画展はとっかかりにちょうど良いかも知れないと思い、出かけてみることにした次第。とは言え、日本化学未来館。僕の感覚ではちょっと遠い。まあ、こんなことでもなければゆりかもめに乗ることも無いし、お台場の方に行くことも無い。
 会場はひと続きの広い空間である。ただ、順路というのは無いような感じ(実際にはあったのかも知れない)。なので、適当に場内を歩く。
 彼の経歴を詳細に紹介する年譜に沿って歩く。それに合わせて関連の展示が並ぶ。並べられたパネルやディスプレイの感じが何故か無印良品を思い出させる。ある意味でエコっぽくも見える。
 肝心の内容はと言うと。彼の発想の元となった「こざね」をはじめ、膨大な情報の整理法のことは何となく分かって面白かった。だが、更に肝心な彼の思想については、もうひとつ分かり辛かった、というのが正直な感想である。これは僕の頭の程度の問題でもあるのだろうけれど。
 とは言え、その発想法はとても興味深かった。ということで、<知的生産の技術>に挑戦してみようと思う。
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もうひとつのブログについて。 [その他]

 このブログを始める前にやっていたブログがある。
 ブログというものが世の中で流行り始める前に書き溜めていたものから数えると、およそ9年近く続けたものだ。しかし、ある時、故あって始めたのがこっちのブログである。自分の気まぐれだけではないのだけれど、その2つのブログを行ったり来たりしていることにはなる。
 それで、昨年、やっぱり故あってもうひとつのブログをほぼ閉鎖した。それでもなるべくこちらで見てもらえるようにと思い、一部を移したのだが(インポート機能が使えないので手動で)、あまりにもその作業が面倒臭くなってきた。そこで、完全ではないけれど一部をそのまま再公開ということにした(なので一部の記事はここと重複しているはずだ)。
 もしご興味がおありという奇特な方が居られれば、<もの思う日々>mwaka71.exblog.jp というのをご覧ください。
 なお、今後についてはこちらで続けていくつもりですので、よろしくお願いいたします。
 
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年頭所感。 [その他]

 昨日から一日経ったら新しい年である。
 新年になったからと言って突然何かが変わる訳ではない。新年というのは何かを変えるきっかけと考えた方が良いのだろう。とは言え、去年の終わり、つまり昨日も書いたとおり、有言不実行の格好悪さをこれまでに僕は何度も体験してきているから、今年は何も言わないでおこう。それでも少しだけ言うとすれば、「何かはやる」ということぐらいに留めておく。
 出来ないことを無理してやるよりは、手を延ばせば届くレヴェルのものでいい。とにかく小さな達成感を積み重ねていきたい。その意味では、去年かなりお留守になっていたこのブログについても、もう少し更新頻度を上げていこうかと思う。そこで「毎日」と言うとまた出来なくなる恐れがあるから、とりあえず「なるべく多く」ということにしよう。
 以上、非常に漠然とした年頭所感。
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年末所感。 [その他]

 何とか言いながら大晦日である。
 結局、今となっては今年も反省ばかりである。出来たことよりもやらなかったことの方が圧倒的に多いように思うし、そもそも何か出来たことはあっただろうかとも思う。
 社会の揺れ動きに対して平静を保つことは確かに困難な一年であったことは間違いないけれど、その一方で「自分」を見失ったままの時間があまりにも長過ぎた。その時間の全部を無駄だったとは思わないが、やはり勿体無いことをしたと思う。この前のブログで未完成ということについて書いたが、未完成以前ではお話にならない。かと言って、今から「来年こそは!」といきり立つのもどうか。どんなに頑張ってもマイペースしか貫けない自分に苛立つのもそろそろ止めにした方が良いだろう。
 来年こそは、ではなくて、来年は何かはしよう。その代わり、自分への期待はグッと下げよう。自分に対する期待を小さくしておけば、その達成感や満足感はそこそこ満たされるかも知れない。僕はもともと達成感を抱かない人間だった。それは自分への過剰な期待の裏返しだっただろう。それを出来るだけ止めれば、いくらか楽になれるのではないだろうか。
 
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まずは。 [その他]

 未完成という状態についてぼんやりと考えた。特に理由は無い。
 確かに、未完成よりも完成している状態の方が価値はあるのかもしれない。しかし一方で、完成しているAよりも未完成のBの方が優れた内容を持つ場合だってある。既に何らかの形で存在している、という状態からすればAもBも同じ土俵の上ということになるのである。
 全ての未完成のものが、作り始めた時から未完成に終わるだろうという予測の上で生み出された訳ではないだろう。とは言え、だからと言って間違いなく完成出来るという絶対的な自信の裏付けがなされていたとも言い難い。出来るかどうかは分からないけれど、このアイデアではどうだろうか、ぐらいのスタート位置なのかもしれない。
 完成させるという意志を貫く、あるいは持ち続けることは素晴らしいことだと思う。僕は残念ながらこの貫徹型の人間ではない。しかし、本当に大事なことは、まずは何かを自力で存在させてみることのような気もする。もちろん、玉石混交どころか、ほとんどは石なのかもしれないけれど、ひょっとしたら玉の原石の一個ぐらいは世に送り出せるのではないか。この場合、自分を信じる、という感じでは大げさだ。とりあえず、やるやらないで、やるを選択することである。
 自分という絶対的な未完成の存在を遊び尽くせるかどうかである。
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このまま。 [その他]

 気分の浮き沈みが激しい僕のような人間にとって、現状認識というものは厄介なことである。調子のいい時は「まだまだ行ける!」と強気に思えるだろうし、そうでない時は「今よりもっと悪くなるだろう」と思う。で、後者のパターンにハマっている時には、どこまででも下がって下がって行くように出来ている。
 今日の気分はどちらかと言うと、数日前よりはマシにしても、低い方だ。この年になって、自分の生き方の文法とも言うべきものを未だに見出していないことに愕然としているのである。ただし、それをよく解釈すれば、パターンに縛られない自由さを未だに持っているとも言えるのだが。
 このまま終わってしまうのか、このままでは済まさないのか。自意識との戦いは無益な場合もあるが、他人との比較でないことを前提とするならば、やはり自意識の超越はひとつの課題である。
 
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<瀧口修造とマルセル・デュシャン>展を観て。 [美術]

 また千葉美術館へ。
 僕にとって、デュシャンは大いに気になる存在であり続ける。音楽家であればジョン・ケージのような存在と言えば良いのかもしれない。既成の美学とは全く異なる観点で「作品」を世に問うていったあたり、共通しているように思えるからだ。その意味で、デュシャンの「作品」で特定のどれが好きかなどと言うのは、あまり意味があるようには思えない。あるのは僕自身がデュシャンの考えたことを是とするか非とするか、ということだけである。まあ、実際問題、何を分かっているかと言われると困るのだけれど。
 しかし、こう書くと過去の経験や記憶だけでも十分に思えるかも知れないが、実際に「作品」に改めて触れてみるとそれらの鮮度というか衝撃度というものは、また新たになるものである。鈍くなった自分の感覚に刃物を突きつけられるような気分になる。それは有名な<泉>ひとつとってもそうだ。
 さて、今回の展覧会はそんなデュシャンを日本で最も熱心に紹介した瀧口修造との関わりの中で示す内容となっている。瀧口も僕にとっては重要な人物だ。何よりも武満徹の精神的な師の一人として(もう一人は清瀬保二だと思う)。また、赤瀬川原平の、かの「千円札模造裁判」の弁護側代表団の一人でもあったことも僕には大きい。つまりネオダダをはじめとする当時の日本の前衛芸術家たちの精神的支柱が瀧口であったという意味で。
 そんな彼がデュシャンを敬愛していたというのは、ごく自然なことのように思えるし、逆にその流れが如何に日本の同時代芸術に影響を与えたかを考えるのは面白い。
 普通の美術展を観るのとは全然違う心持ちでかからねばならない展覧会だけれど、そのスリルは必要だと思う。
 
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娯楽について、ごく短く。 [その他]

 娯楽というものとどう向き合うか。
 などと書いた瞬間に酷くお堅いことを述べなければならなくなりそうだけれど、そんなに面倒なことを言うつもりは無い。
 娯楽は雑食で良いんだろう、という程度のことである。だから僕はそこに極端な純血主義的な発想を持ち込もうとは思わない。どのくらいの割合いで、というのを勘定するつもりは無いし、そもそもそれは不可能だとは思うのだが、現代の娯楽なんていうものの実体の大概は借り物なのではないだろうか。
 そんな調子のものにいろいろな点で目くじらを立てること自体、娯楽の本質に背くように思える。
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それでも時は過ぎてゆく。 [その他]

 早くも2011年の終わりの月に至った。
 世間的には辛い年だったことは間違いないし、個人的には低空飛行の一年だったと思う。「いろいろあった」という一言で片付けるには、そのいろいろな事柄が生々しく脳裏をよぎっていく。だから、重い感じになるのは仕方がない。
 それでも時は過ぎてゆく。
 過去の悲しい出来事は、時間の流れの上では次第に遠ざかっていく。直接の体験と記憶とは、もちろんリンクはしているが、別物だと思う。一方で将来の不安は見る間に近付いてくる。最接近した瞬間に押し潰されそうになりながらも、何とかやり過ごす。だから、今でもこうして生きている。しかし、とにかく生きている限りはどうやっても時の流れに僕たちは支配される。
 それに抗うことは不可能ではあるだろうけれど、自分の精神の中に別の時間の流れを呼び起こすことは可能だろうと思う。僕にとっては、音楽の時間というものはそういう存在だ。
 この話も、いずれもっと掘り下げて考えてみたい。
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日々。 [その他]

 またしても最近ばなしではあるのだけれど、ここのところ、日々の生活がある種の戦いになっている。それは、理由も無く沈み込んでいく自分の精神状態との戦いである。
 悪い時は何をするにしても全てが苦痛に感じてしまうし、まず全身が物悲しい気分になる。更に音楽に接することすら厭になってしまう。何とか調子が悪くない時でも、薄ら寒い感じの不安がちらちらと顔を覗かせる。
 そんな時に限って漠然としたことについて考え込んでしまう。
 例えば、「幸せ」とは何だろう、とか。最近の調子の頭で考えると、少なくとも僕にとっては物質的な充足でないことは確かだ。精神的な平穏な状態ではあるのだろうが、どんな時に平穏だっただろうか。そう思うと、最近では休日に乗ったローカル電車の旅の時ぐらいかもしれない。
 また、思う。芸術について。これはまた何処かで改めて書くことになると思うが、結局のところ、作品対「私」という孤独な閉じられた世界のことであって、その個人的な体験や感覚を他人と共有するのは、実際には困難なのではないか、ということ。あんまり「分かる奴だけが分かればいい」的な発想にはなりたくないけれど。
 未完成について。逆に完成の意義とは。
 例年以上に、実りの少ない自分の行いについて。
 何よりいけないのは、考えようとする意志が希薄になりがちになること。
 物欲は無いけれど、とりあえずこのまま人生を終わりたくないという欲求。
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最近。 [その他]

 ここのところ、どうにも気持ちがよろしくない。
 差し迫った危機がある訳でもなく、日常生活に困りごとがある訳でもない。
 日々をとにかく楽しめないのである。言葉にするのも難しいのだが、何か充実感や手応えのようなものを感じられないのである。
 ただ毎日が淡々と流れていくことに対する恐怖心がある。そのせいか、もの悲しい気分でいっぱいになる。
 去年の今頃だって絶望的な日々を送ってはいたが、原因ははっきりしていた。それに比べると、今はもっと根本の問題のような気がする。
 自分の限界なんてものはとうに分かってはいることだが、今は自分であることに対しても時に億劫に思うこともある。自分の意識に対する苛立ちと言っても良い。
 何事につけても中途半端だった過去の自分からの復讐なのかもしれない。
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<酒井抱一と江戸琳派の全貌>展を観て。 [美術]

 千葉美術館は初めて。
 6、7年ぐらい前のことにはなるけれど、僕は京都の細見美術館で琳派の素晴らしさを知った。それまで尾形光琳や乾山の名前ぐらいしか知らなかったのだが、そこで新たに酒井抱一と鈴木其一の名前を覚えた。20代の頃は退屈なものだと思っていた花鳥風月が、実際にはこんなにも美しいものなのか、と思った。それ以来、細見美術館には何度か足を運んだ。
 とは言え、この数年は彼らの作品にも触れる機会がなかったので、今回久しぶりに観てみたくなった。
 しかし、よくもこんなに集めたなというぐらいに酒井抱一の作品が並ぶ。展示替え分含めて彼のものが約160件あるのだそうだ。
 最初の方では、抱一が20代で描いた美人画があった。後年の作品とはまるで違うけれど、その筆は既に達者だ。その後、彼は光琳を「発見」するのだが、その熱の入れようはすごい。経済的な問題はなかったのかもしれないが、光琳生誕100年に際して遺墨展を開催し、その図録として<光琳百図>を製作している。この辺り、彼は見事なキュレーターだったと言って良いだろう。
 そうしていよいよ琳派の後継者としての作品が続々と出てくる。無駄を排した的確な描写力やバランスの良い構図はもちろんのこと、画面から漂う静寂感は本当に素晴らしい。本来であれば、草は、成長し、花を咲かせ、やがて枯れていくはずなのだけれど、ここにはそうしたドラマを想起させるものは無い。代わりにこれこそ「永遠」ではないかと思わせるぐらいの、静かな佇まいがある。
 重要文化財に指定されている<夏秋草図屏風>も良いが、僕は抱一晩年の作品である<月に秋草図屏風>が素晴らしいと思った。黒い半円として示された月の下、何本かのススキが真っ直ぐにひょろひょろと立っている。現実の夜や月明かりではそうは見えないはずなのに、その画面からは全く違和感を感じない。むしろ秋の夜のひんやりとした空気を自分の肌で感じそうなぐらいである。また、寂寥感というものを目で理解するとすればこの作品が適当だろう。
 ススキと言えば弟子の鈴木其一の<芒野図屏風>が凄かった。もはや抽象画ではないかというぐらいに、一面に広がるススキの原。あまり簡単に「わびさび」という言葉を使いたくはないのだけれど、この作品の寂寥ぶりもすさまじい。
 歌麿や写楽、あるいは北斎といった人々と同時期に彼ら江戸琳派が活躍していたことを思うと、江戸時代の美術の奥深さを改めて実感する。
 
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ヘンデル/<メサイア>について少々。 [音楽]

 先週、中古CDショップを覗いたらオーマンディの<メサイア>のCDが出ていた。手に取ってよく見るとプラウト版に拠っていることが記載されていたので、買うことにした。
 僕が大学の時に所属していたオーケストラは毎年クリスマスの時期に<メサイア>を演奏するのが恒例になっていた。そこで使っていた楽譜がプラウト版である。原典版では管楽器はオーボエ、ファゴットとトランペットだけだったのに対して、プラウト版ではトロンボーンまで入った2管に拡大されている。まあ、19世紀的な解釈と言えばそれまでだが、変な意味での面白さがあるのも事実である。その味が忘れられないので、懐かしさ半分でオーマンディのディスクを買ったようなところもある。
 ただし、オーマンディのは第2部をバッサリとカットしているので全曲盤とは言い難い。それでプラウト版の全曲盤を探してみることにした。
 学生時分に僕が参考用に買ったのはバーンスタインの1枚ものとクレンペラーの全曲盤だった。バーンスタインのはプラウトっぽいのだがよく分からなかった。クレンペラーはさすがに原典版で、彼の他の宗教曲の演奏と同様立派な内容である。
 さて、今回その気になって探してみると案外簡単にバーンスタインの2枚組の中古CDが見つかった。だが聴いてみるとこれはプラウト版という以上にバーンスタイン版と言っても良い内容になっていた。なんと第1部の終わりに「ハレルヤ」が移されており、全体も2部構成に改められているのである。そしてカットされている曲も結構ある。残念。
 次。ボールト。僕は彼の演奏は好きなので、昔から<メサイア>も気になっていたのだが、今回遂に入手してみた。まあ、ガッカリすることは無いのだけれど原典版だった。
 そしてもう一人、イギリス人の指揮者で何度も<メサイア>を録音しているのがマルコム・サージェントである。Cheskyのディスクにアタリを付けて探そうと思うが、そう簡単には出てこないだろう。そう思っていたらあっさりと出てきた。聴いてみると、これはほぼプラウト版による全曲盤らしい。ちょっと違う所もあるけれど。1965年、ロイヤル・フィル。モダン・オケによる古いスタイルとしては立派な演奏だと思う。これこそ学生時分に聴いておきたかった演奏である。
 ところでプラウト版をもっと派手にした版としてグーセンス版というのがある。もちろん、ビーチャム指揮によるアレである。やり過ぎもここまで来れば、という感じだ。ただし嫌いじゃあない。
 と、ここまで書いておいて言うのも何だけれど、結局僕は当然のことながら原典版がいちばん良いと思っている。しかも演奏は古楽系の方が好みだったりする。
 こう聴いてくると、やっぱりまた演奏の場に立ってみたくなる。学生の時は、僕はオーボエを吹いていたのだけれど、パートは前半と後半の入れ替え制だったから、全曲を通して演奏したことはない。今、やるなら原典版で全曲演奏してみたいものだ。
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<トゥールーズ=ロートレック展>を観て。 [美術]

 三菱一号館美術館は初めて。普段、丸ノ内に縁が無いのでたまに行ってみるのも悪くはない。
 トゥールーズ=ロートレック(以下、ロートレック)の作品に向き合うのは随分と久しぶりのこと。まず、ポスターの現物がデカいことを思い出す。今で言えば駅貼りのポスターのような大きさだと思えば良いだろう。そこに実物以上の大きさで人物が描かれているのだから、当時でもかなりのインパクトはあったはずだ。
 ロートレックの魅力は線だろう。彼はシンプルな線の組合せだけで、描かれる対象となる人物の個性をスッと引き出してみせる。僕が面白いと思うのは、何処となくそこにシニカルな視線が混じっているような気がするからだ。彼は美しく描こうとしてはいない。その意味では、彼の線はデフォルメの線なのかも知れない。それこそポスターが商業的な存在であることを全うするためには必要なことだったと思う。もちろん、そこにはロートレック自身の気質もあっただろうし、日本の浮世絵からの影響もあっただろう。とにかく、彼の線はそれらが生み出した独特なものだったように思う。
 他にもいくつか考えたことはあるのだけれど、何故か今日は上手くまとまらないので思い出したら書くことにする。
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Facebookを始めてみて。 [その他]

 この夏、高校の同窓会から会出席の可否を訊くハガキが来た。もちろん帰れないので不参加で返事を出した。いつもならそれでおしまいなのだが、そのハガキには、「今後はハガキではなくソーシャルネットワーク(Facebook)、ホームページを活用していきます」と記されていた。ほほう、流行りのFacebookですか、と思ったが、そのまま放置していた。
 ひと月ぐらい前に、さて机周りを片付けようと思うとその同窓会のハガキが出てきて、Facebookのことも思い出した。せっかくだからやってみるか、という気になり、簡単に登録した。
 すると、高校時代の部活の後輩と大学時代のサークルの仲間からアプローチがあった。その後、久しぶりに会った同じく大学時代の仲間にFacebookをやっているか、と訊いてみたらやっていると言うので「友達」になってもらった。その繋がりで「友達」が少し増えた。
 しかし僕はどちらかと言えばビビリなタチなので、自分から「友達」申請を出来ない。用は、相手にとって僕は「友達」あるいはそれに値する関係だったかどうかについて自信が無いのである。そんなことを言っていたらFacebookの意味が無いではないか、と言われればそのとおりである。
 ただ、ブログのように全く不特定多数の人々に向かって、漠然と自分の考えを述べることの善し悪し(あくまでも自分にとって)と、Facebookの限られた関係性の中で少しばかり一言ふたこと気安いことを述べることの善し悪し(やはり自分にとって)は、同列のものではないように思う。だからこれからは使い分けである。
 しかし改めて振り返ると、自分は何と社交性の無い人間だろうとつくづく思う。まあ、「友達」というものが多ければ良いというものでないことも同時には思うのだけれど。 
 


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<瑛九展>を観て。その2 [美術]

 今日はうらわ美術館へ。
 この前行った埼玉県立近代美術館の展覧会が面白かったので、もうひとつの会場の方にも行ってみようと思い。
 こちらの方は文筆家としての活動や啓蒙普及活動なども紹介されていたが、やはりフォトグラムによる作品と晩年の点描画に尽きる。スランプとされている時期の「日本回帰」的な作品も並べられているけれど、正直それは僕にはさほどに魅力的には映らなかった。
 大まかな印象は前回と同じである。二次元としての美術の行ける所まで行ってやろうという気概が溢れている。とは言え、晩年の点描作品からはそうした野心的なものよりもむしろ宗教画を観ているような感覚も感じた。仏の形をしていないだけで、水玉や丸のひとつひとつが曼荼羅のようにも思えた、ということである。
 岡本太郎の原始的エネルギー(まさに爆発!)やユーモアに比べれば、瑛九の絵画はストイックだし求心的に思える。もちろん、その真摯さ故に僕は彼に惹かれるのだろうけれど。
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メシアン/<トゥーランガリラ交響曲>を聴いて。 [音楽]

 今日は単なる感想程度。
 久しぶりにN響を聴きに行った。金曜日のことである。
 お目当て、というより1曲プロだから他に無いのだけれど、メシアンの<トゥーランガリラ交響曲>である。指揮はここのところ僕的には「祭り状態」だったアンドレプレヴィンである。
 彼のロンドン響時代の録音は聴いているけれど、80歳になって実演でどうなるのか、期待と不安が半々だった。
 結論。
 面白かった。
 と、一言で片付けてはなるまい。
 僕たち(大学時代のオケ仲間と同席したので)は1階席の右手前列で聴いたのだが、そんなにうるさくなるという印象は無かった。精妙とまでは行かないまでも、響きの美しさに対して丁寧に作っているようには思えた。それはメシアンもドビュッシー(やラヴェルストラヴィンスキー)の延長線上に居ることを思い出させてくれるものだった。
 一方で、聴いていて困ったのはリズムの明瞭さに欠けていたことである。プレヴィンは棒をきっちりと振っていたようには見えるけれど、一方で動きはそんなに大きくなかった(座っていたせいもあるだろうけれど)。とは言え、正直なところ明らかに危なっかしい箇所がいくつかはあったし、全体的にキレを感じさせてくれるものではなかったことは確かだ。やっぱりリズムや縦の線の複雑さを鮮やかに捌いて欲しかったと思う。
 そう思うと、20年近く前に、学生時代に京都で聴いた京都市交響楽団(指揮:井上道義)の<トゥーランガリラ>が如何に凄い演奏だったか。あの演奏のCDが出たら間違いなく買うな。荒くても熱さがあったから。

 
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伊藤隆行/<伊藤Pのモヤモヤ仕事術>を読んで。 [書籍]

 1ヶ月ぶり。
 この間、何も無かった訳ではないけれど、単純に書く意欲が失せていた。ちょっと精神的に疲れていたのかも知れない。それはどんどん過ぎていく時間への焦りから来ているようにも思う。その意味では、これからもっと年を重ねていくに従って、時の経つ速さをますます感じるようになるはずだから、何処かでふんぎりを付けねばなるまい。
 先週ぐらいから姜尚中の新著を読み始めたが、未だ読み終わっていないのでその感想は改めて。それは集英社新書だったのだが、中に挟み込まれていた同じ月の新刊紹介の紙をふと見ると、<伊藤Pのモヤモヤ仕事術>が載っていた。これは読まねばなるまい。
 僕が毎週楽しみにしている数少ないテレビ番組の筆頭に来るのが<モヤモヤさまぁ〜ず2>である。まずは大江アナ観たさであることは否定しないが、それを置いとくにしても非常に面白い番組であることには間違いない。さまぁ〜ずの二人と大江アナの絡みだけでも十分に楽しいのに、そこに加わる街と「街の人々」。大げさに言えばその化学反応が想定外の笑いを生み出している、と言っても良いだろう。鶴瓶の<家族に乾杯>と同質の笑いではあるが、NHKテレビ東京の違いも明確に存在しているから可笑しい。
 で、この<モヤさま>に時々ではあるが節目に登場してくるのが伊藤Pである。Pはプロデューサー。いつもは番組終わりの喫茶店の場面に現れるのだが、何年か前の特番の花小金井の回のように「ほぼ出演」という場合もある。いずれにしても、エラぶる訳でもなく、どこかとぼけたような感じで出てくるので、伊藤Pの登場も楽しみだったりする。
 さてそんな伊藤Pの著書である。
 やり手のプロデューサー、というイメージもあるから、とんがった内容なのかと思いきや、実に良い意味で肩の力の抜けた一冊で、これがなかなかに清々しい。実は、「はじめに」で書かれていることが全体のエッセンスだから、全部読まなくても良いのかも知れないが、分かりやすい文章と適度な脱力感で一気に読めてしまう。ついでに、章間に挟まれる関係者の証言もまた楽しい。もちろん、大江アナとさまぁ〜ずも登場して、意外に真面目に語っている。
 仕事術、とタイトルにあるとおり、仕事の進め方や自分の立ち位置に関する考え方も述べられており、それはそれで同じくサラリーマンとして「なるほどなあ」と感じさせてもくれる。僕はビジネス本は一切読まないから、この本がどの程度「ビジネス本」として優れているかは分からないが、案外いい線いってるんじゃないの、ぐらいには思う。
 
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<瑛九展>を観て。 [美術]

 瑛九は好きな美術家の一人だ。多分、その昔、宮崎か何処かで観た時の印象が強かったのだろうと思う。
 そんな瑛九が今年は生誕100年だそうで、その記念展が埼玉であることを知った。しかも埼玉県立近代美術館とうらわ美術館の2ヶ所で同時開催とのこと。これはとりあえず行ってみようと思った。
 今日は北浦和の近代美術館の方に。
 会場に入るとまず瑛九が遺したさまざまな言葉に迎えられる。
 以前、僕が作曲家の清瀬保二(1900〜81)についての催しを企画した時に彼(清瀬)の遺した言葉をパネルにして展示したことを思い出した。それは、あの時代に芸術に真正面から向き合った人物だからこその言葉ばかりだったと記憶する。瑛九の言葉も同じ性質のように思えた。社会との関わりに於ける芸術であったり、表現することへの本質的な問いかけであったりするのだ。その意味では今から見ると随分と「真面目」な印象を受けるかも知れない。だが、生みの苦しみをきちんと見詰めることは、創造的な芸術家にとっては重要なことだろうと思う。
 展覧会に「転位するイメージ」というコーナーがあった。主にフォト・デッサンと呼ばれる手法による作品群が並べられていた。それを観ていると、今度は前に観たモホイ=ナジを思い出した。写真を通した視覚への挑戦という点で相通じるものを僕は感じた。ついでに言えば、もし瑛九が長生きをしていたなら、今のCGアートやビデオ・アートとかにも手を出したのではないか。新しい表現手法にあれだけ貪欲だった人物である。きっとユニークな作品を生み出したはずだ。たらればを言っても仕方がないが、岡本太郎よりももっとマルチに活躍していたのではないかとも思う。
 絵画作品を眺めると、ヨーロッパの近現代美術の影響だろうなあ、と感じさせる作品があるけれど、それは時代なのだろう。しかし、「点へ……」というコーナーで、彼の点描作品を観ていると、実際、もうCGアートの手前に至っているようにも思えてきた。大きな画面上に描かれた無数の点。今どきだと「目の良くなる3D」かと思われるかも知れないが、それは執念の美であると同時に精神宇宙の視覚化でもある。圧倒されずにはいられない。この画面空間は完全にオリジナルなものだと思う。
 うらわの方に行く余裕もあったけれど、それはまたのお楽しみにしようと思う。
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今日のプレイリスト(2011年9月4日) [音楽]

 今日耳にした音楽の記録。

・セルジオ・メンデス/<セルジオ・メンデス&ボサ・リオ>

・マーラー/交響曲第1番 ニ長調
  バルビローリ/ハレo<57>

ショスタコーヴィチ/交響曲第1番 へ短調 Op.10
  ロジェストヴェンスキー/ソヴィエト国立文化省so

ラヴェルバレエ<ダフニスとクロエ
  プレヴィンロンドンso<81>

・レスピーギ/古風な舞曲とアリア 第3組曲
  ロペス=コボス/ロンドンpo<78>

ヤナーチェク/シンフォニエッタ
  プレヴィン/ロスアンジェルスpo<88>

・フォーレ/ピアノ三重奏曲 ニ短調 Op.120
  ユボー(p)ガロワ=モンブラン(vn)ナヴァラ(vc)<69>
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<江戸のパワースポット>展を観て。 [美術]

 駅貼りのポスターを見てずっと気になっていた展覧会である。ポスターには伊勢の二見浦と思しき場所に海上から光の筋が当たる構図の浮世絵が使われていた。そのインパクトが僕には大きかったのだ。
 僕は原宿など滅多に行かない。行くとすればこの展覧会をやっている太田記念美術館に行くぐらいで、それも何年ぶりかのことになる。駅を出て、僕に似合わない街を少し我慢して歩いていって、横道に入った所に美術館がある。ここの靴を脱いで上がるスタイルも結構好きだ。
 そんな前置きはともかく。
 今回並べられた作品を観ると、当時の人々もパワースポット巡りが好きだったことが分かる。もちろん、現代人よりももっと信仰心はあっただろうけれど、もう片方での「観光」に対する欲求も今と変わらないぐらいにあったようだ。それだけ社会が落ち着いていたせいもあるだろう。しかし鈴なりになって富士登山をしてみたり、伊勢参りをしてみたりと、これでは今のゴールデンウィークラッシュと同じだ。日本人の陽の部分はさして変わっちゃおらんのである。
 そう言えば、みうらじゅんだったと思うが、昔の人にとって大きな寺は仏教に関するテーマパークのような場所だったのではないか、みたいなことを言っていたのを思い出す。寛永寺なんかは確かにそうだろう。東の比叡山ということで東叡山な訳だし、不忍池を琵琶湖になぞらえていることを考えれば、これはまるで「東武ワールドスクエア」状態である。
 江ノ島なんかは江戸から一泊二日で行って来れる場所だし、弁天はあるし、富士山は見えるし、もちろん海(太平洋という意識は無かっただろうが)もあるし、最高の観光地だったはずで、それが未だにずっと続いているというのは凄いことだと思う。
 繰り返しになるけれど、今の僕たちの「観光」の原点は江戸時代にあったのだろうと思う。そんなことを感じさせてくれる、楽しい展覧会である。
 因みにポスターにあった浮世絵は、歌川国貞の<二見浦曙の図>という作品とのことである。
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見せかけに騙されてはならない、と思う。 [その他]

 見せかけには騙されてはならない、と思う。
 世間の具体的な事象に対して直接的にどうこうという意味ではない。ただ単に自分への戒めのつもりである。
 分かりやすさは確かに大事ではあるけれど、自分から対象を理解しようとするある種の「攻め」の姿勢を放棄すべきではない。向こうからこっちに寄ってきてくれるのを期待してはならない。対象を冷静に見つめなければならない。多分、ものごとは本来多様で一見では捉え切ることは不可能だ。もし、それを一発で「理解」出来たつもりになったのなら、余程直感が冴え渡っているか、騙されているかのどちらかである。
 日常生活の中で瞬時の判断を求められることはよくあることで、瞬間的に判断が出来ないと支障をきたすこともある。ただ、その場合は基本的には経験則から導き出される結論を元に判断すれば良い。問題は自分にとって初見の場合である。この時は類似例と経験則とを掛け合わせるのが普通だろう。さて、自分なりの回答はどうすべきか。今度は分かりやすさが必要になる。
 つまり、自分の理解のためには分かりやすさを捨てて、他人、他者の理解のためには分かりやすさを旨とすべき、ということである。これがなかなか難しい。自分に正直であれば後者の方は易いだろうが、前者はそうはいかない。わざわざ自分を面倒な方に追い立てるようなものだからだ。それでも自分を深化させたいのなら、その面倒な方を選ばなければなるまい。
 見せかけはあくまでも見せかけであって、その内側にあるものを見定めなければ、対象を「理解」したことにはならないだろう。見定めるためには判断の積み重ねが必要になる。先に言ったとおりものごとは多様であり、たとえ本質が一元的に見えてもそれすら見せかけに過ぎないのかも知れないのである。
 とは言え、判断は最終的には自分自身のものである。結論という統合をどの時点で行うか、どの程度まで判断のための材料を集めるのかは、人それぞれで違うはずだ。見せかけに騙されていないという判断をいつ行うのかも人それぞれである。他人をいちいち論破する必要は無いが、自分なりの回答は、いつかは持ちたいと思う。
 とりあえずの結論にも至らぬまま、とりあえず終了。
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